国産の組版専用システムの危機(2)

12月3日の続きである。数日前にモトヤの販売代理店で私たちのサポートをしてくれているF氏が訪ねてくれた。当然話題は、ELWINのVISTA版開発中止の件である。
実際の開発をしていた九州松下が、次期バージョンを作らないというだけでなく、XP版の供給自体を停止するわけで、代理店としても苦しいところだろう。
XP版の在庫が約160パッケージあり、それを売り払ってこの業務から撤退するということだが、ユーザー側からすると随分勝手な話に聞こえる。
商売として難しい状況は想像に難くないが、自分たちが果たしてきた役割を簡単に考えてほしくない。日本語の組版というのは長年にわたり築いてきた大切な文化ではないのか。
身を引くにしても、ユーザーに対し何らかの方向性の提示があってもよいのではないか。
・・・などとムキになっても虚しいだけだが・・・。
私の会社では、数台のNT版のリースアップの次期を来年迎える。少ないXP版のパッケージを確保し、XP版で環境を統一した上で次の準備をするか、金をかけずとりあえず対象機を再リースして次の準備を始めるか。
いずれにしても新しい組版アプリを決めなければならない。Adobeを太らすのは悔しいが、現状ではInDesignを選択せざるを得ないような気がする。
Macチームはすでに文字ものではInDesignを使用している。Winチームも同一アプリを使用することにより、データの汎用性が高まり、他メディアへの流用がしやすい環境になることはプラスである。
だが現状の組版機能では、専用システムの能力を当然のものとして利用してきたWinチームには力不足である。Pluginを組み合わせて何とか補わなければならないが、なかなかベストが見つからない。今後増えていくことを期待したいが、基本的にはマイナスをあげつらうより、プラス面を生かす道を探す方向に発想を変えていくしかないのだろう。
それにしても、写研とかモトヤのような会社が、貴重なノウハウをPluginの開発・提供に生かしてくれれば評価も変わるのにと、考えるのは無理があるだろうか。

喪中のはがき(2)

S氏の奥様からはがきが届いた。S氏が亡くなった。92歳だった。
氏とは前の職場で数年一緒に過ごした。私が20代から30代にかけてのことだから相当古い話である。国鉄を退職した後に、経理・総務担当としてやって来た。年の離れた生意気な若造だった私にも気さくに声をかけてくれた。
氏を呼んだ社長が退任するとき共に退職したが、その後写真植字協同組合という団体の事務局長として社に社に出入りしていたので、結構長くお付き合いをしていた。
事務局を引退した後も、賀状のやり取りは続き、数年に1度くらいは顔を合わせる機会もあった。最後に姿を拝見したのは一昨年の夏頃だったか。藻岩山に行く途中の車から氏の姿を見かけた。声をかけそびれたが、元気そうな様子だった。
痩身であるが、実に元気な人だった。エレベーターには乗らず、階段を2段ずつ上ることを自らに課していた。
毎年新年に、力強い毛筆の賀状を見て安心していたが、残念ながらもうその機会はない。
心からご冥福を祈る。お疲れ様でした。

国産の組版専用システムの危機

私の職場では、Mac DTPのラインとWindows DTPのラインがある。広告代理店やいわゆるデザイン会社を別にすれば、他社でも大方のところでは同様だと思われる。
Illustratorは別にして、文字組用のアプリではMacの場合、QuarkXPressInDesignがほとんどだろう。国産のものは現在ではWindowsベースが多いと思うが、マシンとソフトが一体の専用組版システムの時代が長く続いた。
私の会社では、モトヤの専用システムを長らく使用してきた。XP版が登場するまではやはり一体のシステムであった。
モトヤに限らず、高価ではあるが日本の伝統的なルールに従って、大量のページもの組版を短期間に効率的に処理するためには、やむを得ないと考えられていた。また、クローズドなシステムであるが故にトータルなサポートを受けることができたことも大きな理由である。
しかしここ数年の流れを見ると、ソフト開発会社が営業譲渡したり、関連業者の傘下に入ったり、新たな開発をストップしたりと、ユーザーに不安を与える出来事が続いている。
先週末、とうとうモトヤからも残念な知らせが来た。Windowsの次期OS、Vista対応の開発を断念するという内容である。
OSの仕様が従来のものとあまりに異なり、旧バージョンのデータの互換性が取れない、という理由であった。
いつかは…、という予感があったので、「青天の霹靂」という思いはなかったが、少し早すぎた。
現状のシステムのサポートがすぐなくなるわけではないが、早々に次の手を考えなければならない状況である。(続く)

JAGATのセミナーに出席する。

21日、JAGATのセミナー出席のため、東京に出かけ今日帰ってきた。東京は15度前後でコートなぞまったく無用だったが、千歳に着いたらいきなり5度くらいだった。今は外が真っ白。久々の雪景色。
テーマは「印刷会社はクロスメディアビジネスにどうチャレンジするか」。講師は(有)ゲインの杉山氏と凸版印刷の富岡氏。
セミナーというのはなかなかテーマ通りの中味にならないものだが、今回はいくつか参考になる話が聞けた。
副題にもあったが、「クロスメディアチャレンジのための人材と能力」はつかんでおかなければならない。デジタルデータを扱うからといって、DTP制作者がそのままWeb制作者に移行できるわけではない、という指摘には思い当たることがある。
少し頭の整理をしてから、将来的な方向性を決めなければならない。

喪中のはがき

また年賀状の季節がやって来た。
父が郵便物を紛失したり、私宛の郵便物を勝手に開封したりするので、1年ほど前から「不在留め置き郵便物」扱いで局留にしている。
週に1度のペースで郵便局を訪ねる。時節柄、「喪中にて欠礼」の案内がいくつか来ていた。
友人達も同年齢だから、親が亡くなったという知らせが多い。
前の職場の同僚から、兄さんが亡くなったという1通があった。私も面識があったが、年齢も私とほぼ同じである。兄妹仲が良かったので悲しみも大きいことだろう。謹んでお悔やみを申し上げたい。

今年はほとんど山歩きに行けなかった

山歩きのWebサイトを立ち上げていた時期があった。PCに向かっていて何気なく当時のデータを開いてみた。
3年足らずでUPをやめたが、今、ページを見返してみると結構頑張っていたようだ。
札幌周辺の夏山を日帰りで回っていただけであるから、客観的にみるとさほどでもないのだろうが、なにせ50を過ぎてのスタートである。それなりに力が入っていた節が伺える。
最初の年は、無意根山アンヌプリ・イワオヌプリ程度だったが、2年目に札幌岳・余市岳・羊蹄山雨竜沼湿原・恵庭岳・定山渓神威岳等30回近く出かけた。
3年目はイチャンコッペ・紋別岳・樽前・風不死と支笏湖周りをクリアし、アポイ・銭天・定天・夕張岳、そしてあこがれの利尻山まで行くことができた。
4年目はさらにと思っていたが、縁合って現在の職場に転職したこともあり、以前ほど自由に時間が確保できなくなった。旭岳・黒岳・空沼岳や近郊の山に繰り返し通う程度で終わった。
5年目もさほど状況は変わらず、十勝岳に行けたのが記憶に残るくらいだ。
この時はかなりあぶない経験をした。自分でルートを確かめずに、百名山制覇を遂げたというベテラン登山者の後を付いていって、立ち入り禁止区域に迷い込み、滑落しそうになった。
途中でおかしいなとは思ったが、すでに降りるに降りられない状況で、強引に登り切るしかなかった。
一瞬、落ちるかも知れないという考えがよぎった時、突然携帯が鳴り出した。こんな早朝にどこの馬鹿者だと腹を立てたが、セットしたままのアラームだと気付き、笑ってしまった。気を取り直しなんとか尾根にたどり着けた。反省しきりである。
6年目の今年はさらに足が遠のいた。仕事・天候・体調・父の世話等々いろいろあるが、気力も薄れてきたのかも知れない。収穫は友人を一人引きずり込んだことか。一人が楽なときもあるが、たまには相棒が欲しいときもある。
来年こそは、と今は思っている。

老いていく父親(2)

私が高校3年になる時、父の転勤がまたやって来た。この時はもうたくさんだという気持ちで、同行を拒んだ。
3年前に30数年ぶりに一つ屋根の下で暮らすことになり目の当たりにしたのは、更に悪化した自分勝手な父の姿である。
元々のわがままで自己中心的性格に、認知症(と思うしかない)の初期症状が加わって、より手のつけられない状態だった。「買い物症候群」にはもちろん手を焼いたが、自分の年金の範囲であればやむを得ないとあきらめていた。だが母親の年金や生命保険にまで手を出そうとしていたのにはあきれた。
自分の保険はすべて解約し、預貯金がほとんどゼロの有様で、年金支給日近くになると残金がほとんどなかった。
昨今話題にあるように、定年間近になっている私達の年金はあまり当てにならない額だが、地方公務員で恵まれた時期に退職した父の受給額は、現役世代の働き盛りの年代の給与に引けを取らない。
それが退職以来30数年、延々と受給を続けながら今や預貯金ゼロなのである!! あろうことか難病で苦しむ自分の女房の僅かな年金や、満期が近い生命保険にまで手を出そうとしているのだ。
息子としてこんなに腹立たしく悲しいことはない。
半ば強引に母親の通帳、生命保険証書は回収した。そのことで毎日消耗なやり取りが続いた。銀行や保険会社に平気で電話をかけるのだから本当に疲れた。
さすがに現在は話題に出てこなくなった。あきらめたというより忘れたのだと思うが。